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樹齢二百年、周囲六メートルのハルニレの木が、ゆるやかにうねりを繰り返す大地に影を写す。竹で編んだ籠を背負う与一は、一歩一歩黒い土を踏みしめて今日もやって来た。与一はこの場所が好きだった。緑の雲のような大木を見上げていると、心まで深く染められていくような気がする。
  今年は五月に入ってから好天が続き、順調に夏を迎えている。畑の作物は大豊作に恵まれた。米の収穫も十分期待できる。水を引いて白く輝いていた田んぼは、たわわに実った稲穂が収穫の時を待ち構えている。

与一は今年八十になった。
もう何人もの人を、この木の下から空の彼方に見送った。

 日露戦争に従軍する前の夜、親友の武と酒を酌み交わしたのもこの木の下だった。抜きんでて背が高く、腕ぷしも強かった武は、開拓地ではヒグマの武と呼ばれていた。
「お前が敵の弾にやられたら、背負ってでも連れて帰ってやる。」
と言って笑った。しかし与一だけが生きて帰ってきた。
 最初の子昭義が、出稼ぎに行った小樽の漁港で大時化に遭い、帰らぬ人となったときも、ここで一人涙を流した。
 昭和十七年の桜と梅の花が一時に咲き誇る五月、三男の清治の子ども巌は浅葱色の軍服に身を包み、ハルニレの木の下に集まった村人にむかって敬礼し、凛々しく出征していった。

 頭を低く垂れた与一は胸の前に合わせた手をパンパンと叩いた。
くるりと振り替えると視界の中にピンネシリ山が微笑んでいる。
一息置いて南の方角に身体を回した。そして同じように手を合わせた。豊作のお礼と、米の収穫が終わるまでどうかよい日和が続きますようにとハルニレの木とピンネシリ山と
奈良県十津川の山の神に言ったつもりだった。


 お粗末な物置小屋同然の家でネイと生活をはじめたのは、与一二十一歳、開拓の村に甘い風のふく春だった。ピンネシリの雪が消えれば寝ないで働くのが村のしきたり。干ばつに見舞われたときも、降り続く雨に開拓地のすべてが泥水にのみこまれたときも、土を信じてネイと共に働いてきた。
「泣くのはうれしいことがあったときにの。」
と言うネイの瞳には、いつも朝露のような光が射していた。
 3年前の冬、白い雪原の上を天からの馬そりが静かにネイを迎えにきた。
「あんたと暮らして、わたしの一生は幸せやった。」
とつぶやくのを最後にネイは息を引き取った。与一にとってこれほど悲しいことはなかった。



「じぃちゃん」
 ピンネシリから吹く風が、透き通った声を運んできた。振り替えると、ゴマ粒のような小さな影が緑の中を駆けてくる。与一は駆け来てきた子犬のような曾孫を大事に抱き取った。幼い命の荒い息づかいが与一の顔にぶつかった。
「とうさんがじぃちゃんと遊んでこいって」
 賢一の全身から匂い立つ甘い香りに与一はほくほくとした気分になる。
「そうか、じぃちゃんと遊んでくれるか」
 与一は眼を細めた。



「賢ボウは大きくなったら何になる」
 賢一ははにかんだそぶりを見せ、
「電車の運転手」
と応えた。
「そうか、電車の運転手か。そりゃあいい、そりゃあいいの。」
言い終わると突然立ち上がり、賢一の小さな腰に手を回した。
「ポッポー、賢一号が只今出発しまーす。運転手は大野賢一君でーす。」
声高らかに宣言した。賢一はじぃちゃんの一声で腰の横に広げた手を列車の車輪のように回しはじめた。
「ガッタン、ゴットン。」
幼い声はそう言って一歩を踏み出した。運動靴を履く足と地下足袋を履く足が、ゆっくり青葉の繁るハルニレの木の回りをまわる。
カッコウが驚いたように飛び去った。
「次は滝川、次は滝川」車掌の与一が言った。
「シュッシュッ、ポッポッ、シュシュポッポ。」
また木の回りを一周した。

「次は大谷、大谷」
そういう与一の声に賢一は足を止めた。
「じいちゃん。そんな駅、知らんで」
賢一は与一を睨んだ。
「じいちゃんの生まれた村じゃ」
「ふうん、どこにあるん」
「南のほうじゃ。奈良県十津川村言うての」
「遠いの?」
賢一は与一を見上げた。
「遠い。いやそんなに遠くはないの」
 おまえの眼の前にいるじぃちゃんの心の片隅にあると言いたかった。


 いつのまにか陽は西に傾き平原を焼いている。馬鈴薯を運び込み、トウモロコシを取り入れて稲刈りがはじまる。刈り取りのすんだ田に霜がおりる頃、ピンネシリ山の頂に雪が降る。