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 日露戦争に従軍する前の夜、親友の武と酒を酌み交わしたのもこの木の下だった。抜きんでて背が高く、腕ぷしも強かった武は、開拓地ではヒグマの武と呼ばれていた。
「お前が敵の弾にやられたら、背負ってでも連れて帰ってやる。」
そう言ってカラカラと笑った。しかし与一だけが生きて帰ってきた。

 最初の子ども昭義は、貧しい暮らしの中でも病気ひとつせず、野原を駆け回る元気者だった。干ばつに見舞われた年、小樽の漁港に出稼ぎに行った昭義が大時化に遭って帰らぬ人となったときも、与一はここで一人涙を流した。

 昭和十七年の、桜と梅の花が一時に咲き誇る五月。三男清治の子ども巌は浅葱色の軍服に身を包み、ハルニレの木の下に集まった村人にむかって敬礼し、凛々しく出征していった。巌は、今も遠いビルマに眠っている。